展覧会

「近代写真の生みの親 木村伊兵衛と土門拳」展

Kimuraihei domonken 1

巨匠2名のテーマ別作品展。
テーマを決め、それにあった写真を展示するというもの。
おもしろい趣向で、その対比を味わえる。

シャッタースピードの木村とピントの土門。その写はどっちが撮ったのかが一目でわかるほどだ。
木村は、スナップ性に富んでいる。さりげなく撮り、去って行く。モデルの撮影など下調べはいっさいしなかったという。その時々の雰囲気、パサージュもろともを”写真”にするのがずば抜けていた。

この感覚がない者が撮ると、ただのプライベート・フォトになりそうなところを悠々と歩いてみせる。写真眼が違う。今ここに広がる風景のどこに注目し、どこから、いつ撮るのかをすばやく判断する「粋」。この粋こそ、旦那・木村伊兵衛の写真術なのだろう。

Kimuraihei domonken 2

土門は、「イメージのマネージ」にこだわった。撮影では下調べを徹底し、頭にイメージを焼き付ける。あとはカメラ、撮影対象をマネージしてイメージに近づけていけばいい。まさに写真をとることは「被写体との対決」だったのだ。

資料価値がある写真、値段がつく写真を撮った、土門は初めから”プロ”だ。
撮影対象が人間であろうとそれは同じだったようなので、モデルは大変な目にあう。当然苦情が絶えなかったという、「鬼の土門」ここにあり、だ。

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アーティスト・作家である木村、プロカメラマンである土門。この2人の写真を観ていておもしろいことに気がついた。土門の写真を観ていて明らかに他の作品とは別の世界が広がっているものがあったのだ。子供の写真だ。スナップ性とやさしさがにじみ出ているのだ。なんとなく木村の写真を思わせたのは、私の気のせいだろうか。

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もうひとつ、おもしろい対比があった。木村はメカニズムに詳しかったが、土門はまるで苦手だったという。木村は、レンズを研究していて使いこなしていたが、土門は露出など弟子まかせだった、ただピント、絞りにはうるさかった。

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このライバルについて高峰秀子の『にんげん蚤の市』のエッセイにも「そのままでけっこうです」という木村伊兵衛と「ちょっと銀座通りを歩いてください」という土門拳が対比されている。

しかし、共通点もあったようだ。図録に収録されている2人のお弟子さん田沼武能氏(木村伊兵衛)と藤森武(土門拳)の対談にあるが、木村も土門も実は寂しがり屋だったようだ。もうひとつ、すごく酒飲みで煙草を吸っていた。

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木村伊兵衛と土門拳だけではなく、このような軸をもった展示会がもっと開かれるようになると面白いだろう。

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同年代だけではなく、東西南北、老若男女と軸はいくらでも設定可能なのだから。どこも手をつけないのなら私がやりだそうかな・・・。 

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