展覧会

奈良原一高「時空の鏡:シンクロニシティ」展

Ikko narahara Synchronisity 1

梅雨なのにスコーンと晴れた日だ。
暑い。やっと時間がとれた。

2フロアにわかれていて、だいたい時系列に展示してある。
初期の作品は、「黒」が多い。『人間の土地』が分かりやすいが、影を撮った作品がズラリ。壊れた窓から外を見る等のフィルター効果を使ったものも多め。ポートレート作品は、人物が部分的にしか写されていなかったり、体が折れ曲がっていたりと、伏せられたものが多い。
つまり、「おもかげ」をめぐる写真が大半だった。

場所を撮影したものでは、「部分に託す」ことをやっている。
東京の街シリーズの、銀座、新宿等の写真がそれだ。この横断歩道の縞々を銀座と呼んだり、ショーウィンドウを青山と呼んだりと断片にたくしているのだ。アッジェのパリの写真が頭をよぎった。まさにイメージとしてはそんな感じだ。
しっかし、この圧縮はすごい。よほどの情報量がないとここまでは圧縮できないだろう。絞り込むことで、観るものに与える情報は増えることもあるのだ。

Ikko narahara Synchronisity 2

「日本」をどう撮っていたのかも興味があった。
展示方法から触れると、あたりは通常の明るさよりも暗く設定してあり、展示写真にはそれぞれにスポット光をあてている。暗闇に写真が浮かび上がっているのだ。
これはさきほどの「おもかげ」とも関係してくる。
写真は、坊主を撮ったもの。座禅風景と、日常が写しだされる。ここでも黒さは際立つ。写真のセレクトは静と動がバランスしていた。
もっと別の日本を見てみたかった。

次は外国篇だ。
杉浦康平デザインの写真集が展示される。アーチにともったアカリをひたすら同アングルで撮りズラリしたもの。
ここも暗いゾーンになっている。写真展でインスタレーションっぽいものはひさしぶりに体験したが、まだまだ可能性はあるな。
さっらに暗闇ゾーン。もうひとつの部屋には仮面舞踏会か食事会か、口角レンズで見回したものが展示される。かなりの大きさ、横4メートルくらいはあるか。ここには舞踏会よろしくキラキラビロードの真っ赤なベンチが例によってスポットをあびて輝いている。こうした「場」をつくることは大切だ。

アメリカ篇では、その写真のメッセージの情報量がかなり多いことに気がつくはずだ。
それは、背景や人物、オブジェの細部とのシナジーによるところが多いのだろう。
写真を読もうとするとすぐに情報が立ち上がってくるのはこれまでにない経験だった。

Ikko narahara Synchronisity 3

次に第二会場で気になったものにふれる。
会場最初の展示、レントゲン写真と風景写真等のコラボレーションにギクリとさせられた。医療用も写真は写真、こういうこともアリなのだ。

このあたりの医療系からの発想の転換から描かれる世界が美しい。
実際に奈良原一高の体験した症状から表現されたもの、「負」からの転換が鮮やかだ。
「ダブルビジョン」という症状は、ものが2重に見えてしまうもの。これを表現したものに始まり、応用した「クリスタル」作品群が場を占める。
それらをよくみると、像のひとつひとつに違いがある。例えば右の写真ではハトがいるのに、左の写真ではハトはいない、というふうに。
単純に1枚の写真を反転させたわけではないらしい。さらに、その2枚の写真の境界線がはっきりと分かるものと、分からないものがあったりするのだ。

この手法はまた応用され、ブロードウェイ・ストリート付近を同アングルで撮影した写真を4枚つなげて作品にしている。
その作品をアクリル版に写して重ね合わせた「クリスタル・シティ」は美しい。

というふうに、この会場では、「コラージュ」作品だらけだ。そしてテーマの設定は自らの「負」を転換させたものになる。
第一次会場は、情報量が多く物理的だが、第二会場はイメージが重視されていることがわかる。もっとつっこむと、世界から情報を抽出してメディアに乗せて伝えていたのが、メディアを掛け合わせ、イメージを創出するようになった、ともいえるのではないか。

東京都写真美術館
奈良原一高「時空の鏡:シンクロニシティ」展