『日本語のデザイン』というズバリなタイトル。
文字は大きく行間もとってある。図版も多くて読みやすい。
日本語の成立から歴史を追うように展開していく。日本語の源流から考えていくので表面だけのデザイン考ではない。
日本のデザインを考えるうえで参考になることも多かったので、気になるところをざっとまとめてみたい。
日本語はもともと文字をもたない言語だった。発音やアクセント、旋律や拍が、今以上にコミュニケーションとして重要な要素だったと想像できる。
天武天皇の『古事記』プロジェクトを進めるにあたって、口承を筆記する必然から倭語を文字化する必要があった。すでに大陸から漢字が渡ってきたとはいえ、もともとオラルコミュニケーションだった日本文化を文字化するのは難しい。
そこで『古事記』の筆者・太安万侶は記述のルールを決めて意味を定着させようとした。漢字を「音」として使うか、「意味」として使うかを検討して、どうにか漢文風日本語のようなものでまとめあげた。
表意と表音を組み合わせて、日本語の特徴といわれる名詞に助詞や述語をおぎなって構文するスタイルをめざしたとも言える。
重要なのは、抑揚、アクセント、発音、旋律、拍、身振り手振りまでをふくめて言葉である音声文化と発音すら満足にうつしとれない漢字をもちいた文字文化のギャップをいかに埋めるかを試行錯誤したこと。
これは言葉をデザインすることの始まりだった。
今でいえば、メールの表記にこのような試行錯誤をみることができる。顔文字、絵文字が登場してきたことだ。アスキーアートも含めていいだろう。
電話では伝えられないニュアンスをテキスト・メールで表現するためにどれほどの顔文字が産まれたことか。携帯電話のメール機能にはキャリア独自の絵文字がたくさん用意されている。
電話ばかりではない、BBSもこのメール表記文化をひっぱった。
『万葉集』で有名な「万葉仮名」。
これは「山」を「也麻」、「川」を「河泊」、「恋」を「弧悲」と綴る一字一音式のスタイルだ。昔あった「夜露死苦」のたぐいも実はコレ。
この万葉仮名の草書体を原字にこだわることなく簡略化していった結果生まれたのが「ひらがな」だ。主に女性が用いた文字といわれ「女手」とも呼ばれている。
文章は漢文で書くことが当たり前の中国支配下の時代に日本独自の文字はアンダーグラウンドのものだったというのがおもしろい。
ひらがな(女手)は、公用語である漢語(男手)に対するサブカルチャーの文字で、中国の文化的支配から独立した日本自前の文字といえる。その特徴はやわらかく、あでやかで「流麗」といわれ、確固たる骨格をもつ漢字に対するアンチテーゼといえなくもない。「くずし」「かしげ」「ひょうげ」などは日本文化を特徴づけるもので、くずすことでアイデンティティを保ってきたと言っても良いだろう。
そんな日本語のデザインにかかせない要素がふたつある。
「連綿」と「ちらし」だ。
連綿は、つづけ字といったほうがわかりやすい。二文字以上が連続して書かれるかな文字。続けて書くことであるかたまりをしめし、読みをたすける役割があった。つまり視覚的に意味を支えていた。一字一字が独立して書かれる万葉仮名などの男手とはココが違う。それはアルファベットのスペルのようなものといえ、ひらがなもアルファベットも表音文字なのでこのような共通点があっても不思議ではないと思う。よく知られているようにアルファベットはA-P-P-L-Eと認知するのではなく、「Apple」という単語ごとの図形として認知される。
連綿は「文字組」の問題だ。
ちらしは、レイアウトにかかわる問題で、なにも置かれていない空間にも意味をになう構造を与え、言葉と言葉の関係を位置関係に置き換えて構築する。
漢文はリニアに文章を読むことを必要とされるが、レイアウトによって書かれたテキストを読むことは「二次元の読書」「空間の読書」をユーザーに提供している。
ちらしは、グリッドシステムのように文字をブロック単位でレイアウトする。これでその配置で生まれる文字以外の空間を意識させることができ、読者も空白を含めて文字のスペースとして「読む」ことができる。キーワードは、「対抗空間」「非対称」「非定型」「かしぎ」「ゆらぎ」など。
無文字文化を文字として定着する際に失った抑揚や発音、拍、身振り手振りにかわる「ふり」がちらし書きによるレイアウトだった。
ここに日本におけるレイアウトがはじまり、書かれた様子をふくめて意味を読みとる「空間の読書」もはじまった、無文字文化だった日本の独自の「文字による表現」の確立だ。
1930年代のモダンタイポグラフィの運動や第二次大戦後のスイスのデザインスタイルが示した「アシンメトリー」「カウンタースペース」の考え方と同じモノが、すでに発露していた。
これらのことから日本のグラフィック・デザイン、高度な平面空間処理感覚のすばらしさに納得できた。
破調やくずしが日本人の美意識の源流にあるとしても、空間を重視する流れるような構成美はちらし書きによって生まれた。その空間を構成する要素は文字に続いて絵も加わってくる。
日本のグラフィック・デザインには「うた」も密接に関係してくるようだ。つまり「和歌」。和歌の文化は、絵と歌を有機的に結びつけることで、ある意味や情緒を伝える表現が愛好された。絵と歌は文化的教養上不可欠なものになった。
歌と文字と絵が一体になったものも登場する。それが「葦手」。「へのへのもへじ」を連想するとわかりやすいかも。
さて、オラルコミュニケーションをどーにか定着させる表現が模索されるなか、まだ手をつけていない領域があった。さらにメッセージをうまく相手に伝えるべく考え出されたものがある。「料紙」だ。
文字を載せるメディアそのものがデザインされはじめた。雲母や切箔を刷り込み、文様を描き、色を染め、料紙と料紙をつなぎ合わせるなどあらゆる方法が試されたようだ。
文字・絵・空間・メディア、これはグラフィック・デザインの要素そのものだ。すべての要素の相互関係でメッセージを伝える、これはデザイン思考の骨格だ。
グラフィック・デザインには印刷文化が大きく関わる。印刷技術ではヨーロッパのグーテンベルクを誰もが取り上げる。活版印刷だ。もちろん日本にも活字は入ってきていた。ただし、初期の活字は少部数の刊行物やプライベートの印刷物にわずかに残っただけ、パブリックな、メディアとしての出版物には整版、一枚板の木版が使われていたよう。
出版メディア都市・江戸では、冊子のスタイルとして物語と挿絵というものではなく、絵と文を並列に読む・見るというスタイルが確立していった。浮世絵を思い浮かべるとどんなものかがよくわかる。
この絵と文を等価に扱う手法は、広告やかわら版、幕末から明治にかけての錦絵新聞にも用いられ、きわめて視覚的、即物的に情報を伝える方法として定着した。「画文併存様式」とでもいうのか日本のデザインの最も重要なスタイルのひとつだろう。
日本文化が誇る世界的メディア「マンガ」がわかりやすい例だ。
これは「整版」という技術が産んだ「文字と絵を同一フォーマットで扱う表現技法」といえる。すでに一般的となっている「DTP」もこれと同じだ、PCというフォーマット上で文字と絵を扱っている。結論めいたことをいうと、だからこそ、今、日本のグラフィック・デザインがおもしろいし、世界から注目されているのだと思う。
対して、「活字」はというとその方法からいって文と絵はきっちりとわける必要があった。だからこそヨーロッパでは文字と画像が解け合うようなレイアウトが産まれるのは難しかっただろう。と、すれば「空間の読書」が一般の人々まで行き渡るのも無理だろう。
ひとりの作家が絵も文字も同じフォーマット上で扱えれば、表現はよりグラフィカルなものとなり、ダイレクトに視覚に訴えるデザインが可能となる。
とはいえ、ヨーロッパに「空間と文字」の関係がまったくなかったわけではない。ラマルメの『骰子一てき』などの好例もある。
情報の大量生産・大量消費の時代になって「ベタ組」という誰が組んでも一定水準を満たすことのできる方法が産まれた。マス・コミュニケーションにとってはいい方法だ。
しかし、今は違う。
情報はありすぎる。
より多くの人に、より多くの情報を、より早く届けることを目的とするよりも、情報を手渡したい相手に確実に届けることを模索しているのが現状だろう。
DTPの時代、すべてをデータ上で扱える今こそ、日本が誇る「平面空間処理感覚」が新しいグラフィック・デザインの世界を切り開いていくヒントになると信じている。
日本の方法を詳しく探り、応用していけるようにしたい。
と、ものすごく長くなってしまった。
この本には現在の日本のデザインについての考察が少なかったな。この先は自分で考えないといけないってことか。
こーいうのって卒論のテーマにしたらおもしろそうだ。
もっとちゃんと時間をかけて資料を集めて、近代から今のデザインにたいする考察なんかも加えて。さらに外国との比較なんかも盛り込むとおもしろくなるんだろうな。