ビジュアルコミュニケーションを扱ううえでこういったものも役立つだろうと思って読んでみた。おもしろそうだし。
そもそも眼に入った映像すべてが見えているわけではなく、見えないことに気づかないことが常に起こっているそう。「盲点」がまさにそれ。視神経が集中するため網膜がないところが盲点になっている。しかも、網膜が欠けているために入ってこない情報を、まわりの色や形に合わせて、つじつまが合うようにみせるべく修正されているのだとか。本人が気がつかないところで巧みに隠されているということになる。
世界は眼で見るのではなく、脳で見るのだということが語られている。世界は常に主観だということ。
例として「色の誘導」があげられていた。「色対比」「色同化」のことで、周囲の色によって同じ色でも明るく見えたり暗く見えたりするアレだ。
あとは「色の恒常性」。光源によって色の見え方が違ってくるもので、白熱灯と蛍光灯の下では見えが違う。昼間と夕方とかとか。でも、それほど極端に違いを認識しているわけではなく、どこだろうと紙は白いし、リンゴは赤いように見える。光源が違うだけでいちいち見え方が違っていたらチカチカしてしょうがないから、これまでの経験から色をオート補正しているそうだ。
大きくまとめている部分をぬきだすと、
・私たちの視覚世界を作り出しているのは「脳」だ。そして、視覚世界はきわめて「主観的」であり、その形成は「見る」経験によって大きく影響を受ける。
・そもそも映像を受けとる網膜自体が平たい二次元の膜なのだから、三次元のこの世界は、見るというよりも、「さまざまな二次元の手がかりをもとに、頭の中で作り出される」といったほうが正しいのである。
・世界を安定して知覚するためには、頭の中で補正することによって、世界を見る必要がある。この基本があってこそ、世界は安定して見える。
例えば、「運動視差」「遠近法」「影」「大きさの恒常性」「形の恒常性」など。これらが互いに補い合っていて、「だまし絵」は意図的にこれらの属性を操作して作られているそう。特に恒常性を操作されるとあっというまにだまされるようだ。
・私たちは、経験をつまなければ見えるようにならない。
そーいえば、映画も「映画の見方」を学習しないとひとつの「映画」として楽しむことができないと聞いたことがあるな。テレビもない未開の土地に住む人にいきなり映画をみせてもさっぱり分からないらしい。
いかに普通に見ていることが高度なことかが科学的な実験を通して証明されている。
・動くものはおおむね、すばやく的確に発見できる。
・大人が形を見るとき、部分的な特徴を無視して、全体で形をとらえている。
・私たちはモノをみるとき、自動的に対象を「図と地」に分ける。
こうした視覚を扱っていくときに、冷静になってこれらの「あたりまえに見えていること」を意識すれば面白いことが考えつくかもしれないな。