写真家の言葉というのは、ときに鋭く切り込んでくるようなところがあって読んでいてスカッとする。
この本は、ストリート・スナップショットの世界的写真家・森山大道と学生の講義の様子を収録した対話形式だから読みやすく、一気に読み切ってしまった。
カルティエ=ブレッソンの記録映画を観るための予習とでもいうか、観る前に写真家の言葉や思考に触れておきたかったから手にとった本だ。
カルティエ=ブレッソンと森山大道、どことなく似ているな、というイメージもあってのこと。
学生との質疑応答が4講義分収録されていて、率直な学生の問いかけに森山大道がその哲学を含めて丁寧に答えていく。
カメラマンには、自身の写真に対するそれぞれのインターバルの取り方というのが技術的なことも含めてあるという。森山大道自身は、ラフな写真とのつき合い方を選んだようだ。
「一日カメラを手に行動するということは、これもひとつの旅だという感じがある」とそのスタンスを語る。
写真集をつくることが好きな森山大道は、その理由を「写真てまったく生き物でね、構成やレイアウト、装丁でさまざまに生きようが変わるんです。息づいてくるんですね。そういうプロセスが面白いから写真集を作るのが何より好きなんです」という。
写真展については「展覧会はどうあれショーだとはっきり考えています。入口に入った途端、まず強い視覚的・感覚的なインパクトを与えたい。会場のイメージ全体をまず体感してもらいたい。その一瞬が勝負で、一点一点の写真はそのあとで好きなように見てもらえばそれでいい」と明確なビジョンがあるようだ。
そして基本的なことだけど、写真を撮る現場とプリントをする現場というのは、作業のありようこそ違えおなじくらいのウェイトで大切なものだと説く。
さらに、仕事感として基本はあくまでも日本で撮って日本で出すということにこだわっている。ニューヨークの写真はニューヨークの写真家にまかせておけってことらしい、もっともだ。
森山大道といえば『新宿』に見られるように「都市」という場所を主なテリトリーとしている理由を、あらゆる人間の欲望が巨大な集合体になっている欲望体としての都市が好きだからだという。
これは実際に写真を見ると納得してしまう。
写真そのものについては「幾重にも生き返ることのできる不思議な記憶装置」と表現。「写真家それぞれ、いろいろ意識や美学や方法を持っているし、それらすべてをひっくるめたバリエーションが写真」というかなり冷静な面も持っていると感じた。
「写真は、自分を写そうとして世界が写る、世界を写そうとして自分が写ってしまう、どんな写真だって個に裏打ちされている」という言葉にも熱いようで客観的な目で写真を分析しているなと思わせる。
独特の言い回しとして「写真は、昔日の情報だけではなくて、現在の時間への問いを投げかけてくる《光と時間の化石》だ」という言葉が印象的。
学生たちへのアドバイスも忘れていない。例えば、
「まず自分でやり始めないとね。それが自分自身の写真のコードにつながっていくわけだから」
「本当にたくさん写真を撮ってください。ひとまず量のない質はない」
「どうせワガママな自己顕示から始まっているわけだからもう自信過剰でいいんだ。オレが一番だという自信、過信、妄信。たとえ虚妄でもそんな塊になってやらないとダメなのね」
「べつに自分の写真についてなんてしゃべらなくてもいいんだよ。見る人それぞれが、それぞれのコードとセンサーで読みとるわけだからさ。とくとくと説明するなんて、カッコ悪いよ」