日常

寂菖蒲

寂菖蒲

久しぶりに写真撮影。
近所の公園に咲く花菖蒲を撮りに行った。見頃はもう終わっている。それでもまだ年配のカメラをかついだ人たちがちらほら。
この人たちに混ざってシャッターを切っていたわけだが、撮る視点はちょっとちがう。
実は、最盛期を終えた花を撮っている。
枯れ始めた花、と言った方がいいか。
タイトルの「寂菖蒲」とはこのことだ。ちなみに上の写真は去年のもの。
なぜ、わざわざ枯れ始めた花なのか。
それは日本文化にある「寂び」を写真で表現したかったからだ。サビは、すさんでいくもの「スサビ」からくる言葉。
花だって、キレイに咲いている時期だけが「花」ではない。咲く前はツボミだし、枯れゆく姿だって、また「花」だ。この「枯れゆく花」をもって「寂び」を表現してみたかった。
よくよく見ると、この枯れていく姿も美しい。
画角によっては、ものすごく生命力を感じる。それは最盛期の「花」にも勝るほどだ。
この美しさと生命力を写真で表現することに挑戦しているわけだ。
もうひとつ、考えていたことがある、
被写体の力を借りずに「美しい写真」を撮ることができるようにもなりたいと思っている。
被写体が美しければ、ある程度ちゃんと撮ればそれは「美しい写真」として成立するのは当然のことだ。
では、キレイな被写体に寄りかからない「美しい写真」を撮るにはどうすればいいのか。
こんな考えが頭のすみっこに住んでいる。これについては、またの機会に整理してみたい。
今度はちょっと早起きして撮影にいこう。
カメラおじさんが「美しい写真」を撮っている横で、寂びていく花をやたらと撮っている姿は、外からみたら変な人なんだろうなあ。
こっちにしてみれば、そんなありきたりな「美しい写真」は、
もうお腹いっぱいなんだ。