日常

『国家の品格』

実


またしても大ベスト・セラーに手を出した。
読んでみると、これがなかなか爽快。
今、よく言われている英語教育やらゆとり教育やら資本主義、競争社会までもバッサリ切っている。
まずは「論理」の危険性。
論理的にスジが通っていればいい、ということがいかに危険な考え方かということがわかる。今考えてみるといかに非道と思われることでも論理さえ通っていれば、人間は受け入れてしまうという。
しかも、「論理」なんていうものは簡単に作り出せてしまう。
論理的に正しいことと善悪は別次元のことだとうことを意識しないといけない。
そして危険なのは「ワンステップ論理」。
国際化社会 → 英語を学ぶ
一見なかなか気持ちのいい論理。
これが具体的なツーステップになると。
小学校で英語を教える → 英語がうまく話せるようになる → 国際人になる
すごく分かりやすい。
聞いていて気持ちいい。
だだし、これでほんとうに国際人になるかというと、そうではない。
英語を話せたところで、話の内容はどうなのか。
肝心の国語や日本文化を学ぶ時間を削ってまで英語を学ぶ必要があるのか、とうことになる。
表現する手段よりも、表現する内容を整えるほうがずっと重要なはずなのに、
教育者は「気持ちのいい論理」にやられてしまったのか。
英語なんてしょせんは道具、道具は使う人次第。大事なのは道具ではなく人。
人間にとって最も重要なことの多くが、論理的に説明できないそう。
そりゃそーだ。当たり前すぎて、言われてみて納得。
この「重要なこと」は幼いうちから先生や親が押しつけていかなければならないとも断言。
たいていの場合は説明不要で押しつけていい。
「卑怯はいけない」
「弱いものいじめはいけない」
と、押しつける。
初めに何かの基準を与えないと、子供としては動きがとれないからだそう。
なるほど。
おもしろいのは、論理には出発点が必要ということ。
これも当たり前すぎて意識するのは難しいだろうな。
論理のステップを踏む前の立ち位置だ。
どこに立って踏み出すか、とうこと。
この立ち位置は何で決められるのか、著者は「情緒や形」と日本的な考え方にいきついたようだ。「武士道」なんかはいい例。
論理はたしかに重要ではあるけど、出発点を選ぶということはそれ以上に重要なことと説く。それもそーで、足を踏み出した先が上り階段か下り階段かでその論理のいきつく結果は全く違うものになる。
この出発点を教える方法として「この世の中には、論理に乗らないが大切なことがある」ということを徹底的に叩き込むことだという。
日本人の核として自然への繊細な感受性を源泉とする美的情緒があげられる。
華道、茶道、書道、俳句などなど。
なるほど日本の自然環境が与える影響というのはかなり大きいようだ。
俳句を詠んだときに、日本人なら誰もがイメージする情景は、外国人にとってなかなか難しいようだ。おもしろい例として「古池や 蛙飛び込む 水の音」という俳句。
日本人なら蛙がポチャンと一匹飛び込む音が森閑とした古池の静かさをいっそう引き立てている光景が頭にうかぶ。しかし、日本以外の多くの外国では、池に蛙が集団でドバドバドバッと飛び込む光景を想像するらしい。
この繊細なイメージの力がすばらしい文化として根付いているのは明らかだ。
漫画、アニメなどのサブカルチャーをざっと見回しただけで、わかる。
やはり、日本人は日本人のように思い、考え、行動して初めて国際社会の場で価値を持つようだ。
日本の底力として「美しい自然」「神や仏や自然に跪く心」「役に立つものとか金銭を低く見る風土」があるという。
まさに日本文化・伝統に通じている要素ばかりが並んだ。もう一度日本文化を、最新の文化という視点でみるのもおもしろそうだ。
昭和18年、当時駐日フランス大使を務めた詩人・ポール・クローデルはパリでハッキリといったらしい。
「日本人は貧しい。しかし高貴だ。世界でどうしても生き残ってほしい民族をあげるとしたら、それは日本人だ」
読んだあとは、わずかでも
日本人ということに誇りを、日本文化に興味を持つようになるはず。