まずタイトルに目がいった。
「What」ではなく「Why」だからだ。
「デザインとは何か?」という問いは多いけど「なぜ?」というのはめずらしい。それに原研哉の語りも気になる。相手はアーキテクトデザイナーの阿部雅世だ。
2人に共通している考え方として、デザインは人間にとって本質的な何かを覚醒させるための営みだと捉える懐の深さ。デザイン家具とかデザイナーズマンションとかいって騒いでいるレベルではない。やはりここまで深く考えることは必要だろう。
自身のデザイン行為について、「器」をデザインしているというイメージを持つ原研哉の言葉はしっくりくるものがある。
シンボルマークのデザインにしても、「もの」の形や見栄えではなく、マークの運営をとおして人の脳の中にしかるべきイメージを構築していく「こと」を目指している。
まさにリチャード・ワーマンのいう「情報の建築」なのだ。
それはレイアウトとは見栄えのことではなく、論理の流れであるということにもつながっているように感じた。デザインは表現のプロセスを精密に意識化する。「なんとなく素敵」で決めていくとメッセージにならないのだ。
情報のイメージも人が受けとって消費するだけのものではなく、その人の脳を活性化してさらなる興味を引き出す力を持つもの、と語っている。
その方法には「未知化」をあげた。「いかに知らないかをわからせる」という方法で、確かに「わかった」という思考よりもインパクトがあると思う。
「デザイン」の特徴としては、異分野の人たちに意図を伝えつつ、誤解を解きつつ仕事を進めなければならない、という。デザイナーは説明のプロにならざるをえない、と。
これはコミュニケーションを発生させる装置をつくる職能なのだから当然ではあるけれど、案外忘れているデザイナーは多いと思う。
一方、説明のプロとして、大事なことはあえてふせる、という技術もときには大切だとも語る。特定の環境を共有している人たちに対してとか、ブランドが確立している場合であるとか。
日本のデザイン「余白」にしてもビシッと言い当てている部分があった。
余白はあけるものではなく詰めるものだ、と。余白ではなく「間」といったほうがいいかもしれないな。間をあけると「間抜け」になるけど、間を詰めると緊張感をもったデザインがうまれる。
阿部雅世もいっているけど、ヨーロッパのシンプルと日本が伝統的に接してきたシンプルは明らかに違うものだ。ヨーロッパのシンプルはどこか違和感がある。
デザイナーへのヒントをいくつか取り上げてみる。
●デザインの創造性は「問い」にかかっている。
●日本の感受性は非常にデリケートなんだけども、それを自分の文化の文脈だけにひそかにとどめておくだけではなくて、そういう猛烈に静かで繊細なパワーをこそ、もうちょっと世界の文脈の中にだしていきたい。
●日本独自の文化をきちんと見直して、冷静に評価して、ここでもう一度時間をかけて、自分たちに合う生活、自分たちに合うものをつくっていくべき。
●なんとなく気になるものを、いつも目につくところに置いておくと、無意識の中でそれが消化されて、デザインにいい影響としてでてくる。
●束縛が個人を押しつぶそうとしている時には「らしく」ということがとても貴重だし、自分のアイデンティティをことさら意識する必要もある。
●デザインとは生活文化をつくる仕事。ほしいものを与えていくことによって生まれる文化よりも、デザインによって覚醒されていく生活の方が、確実に社会を豊かにしていく。
最後のほうでは、教育についての会話がつづく。
デザインの理想として、ものやコミュニケーションを通して、錬度の高い合理性に目覚めていくことだとも語り、小学校からでも基礎教育として学んだほうがいいという。スペシャリストではなく一般教養という考えは、賛成。子供のころにデザインの見方、考え方を知っているかいないかで、その後の人生に大きく影響してくるはず。