日常

『芸術としてのデザイン』

前から読んでみたかったデザイン論。
生活のためのもので美しくデザインされたものが一つの芸術作品として無駄なく機能するような生活こそバランスのとれたものだという主張は賛成。
その例として出されているのは、古代、芸術と生活とが歩調を合わせて進んでいて、そこには鑑賞のための芸術作品といったようなものや、使うだけといったものはなかったという。
デザイナーについては、「美的なセンスをもったプランナーである」と表現している。
進行中の計画の、それぞれの部分に正しくウェイトをかける。ものの装飾的機能さえ、一つの心理的要素として考え、その対象物を、自分の個人的な趣味でおおい尽くそうとするのではなく、客観的であるように試みる。
デザインのいろいろな問題を解決する手段と方法を知っていて、芸術と大衆の間の接触を、いま一度確率しようとするやり方で働く。
デザインに関しては、「今日、人間が生活している環境とその感じをつくりあげようとする、あらゆるものの、可能なかぎり客観的なプランニング」と言っている。
これに関しては、もしある物が結果として美しい形態になったとしたら、それはその構造の論理性や、そのさまざまな構成分子に対して見いだされた解釈が正確であるためだと断言。
つまり、それが美しいのは、まさにそれが正しいから。「正確な計画が美しいものを生み出す」という。
ビジュアル・デザインについては、ゲシュタルトの重要性も語られる。
個々の文字の形はもちろん、その文字が集まってできる「単語の形」にもふれ、線と一つの文字とその隣の文字との間の空隙が、その言葉に全体の形を与えており、一見しただけでその名前を読むことができるという。なるほど、確かに大企業のロゴマークなどを思い出すとよくわかる。
言葉の形を知ること、またそれが伝達に与える可能性は、グラフィック・デザイナーにとって大いに役立つものとなると締めくくっている。
おもしろいと思ったのは「それぞれの文章はそれがどんなに短くても、それ自体の”読む時間”があるといいたい」という主張だ。
詩などは、ゆっくりと読むときに伝わってくる。
意味や強調によって、読む時間をコントロールするように文章をレイアウトする技術は重要だと改めて感じた。
ものの本質を見いだすためには「加えるよりも減ずること」だという。
もうこれ以上単純化することはできないというところまで、余分なものはみな捨て去ること、そして可能ならばどんな場合にも、物に対する材料、また技術を選ばなければならないと断言。マイナスすることで見えてくるというのは、大賛成だ。
彼の哲学として「自然の構造を学ぶこと、形の展開を見つめることは、わたしたちのすんでいる世界のことを、みんなにいっそうよく理解させてくれる」
芸術作品への考え方として、「開かれた芸術作品」「閉じた芸術作品」と分けているのがおもしろい。見る人が作品の中へ進入できる余地がある作品は「開かれている」、その意味がはっきり決められている、決定的な作品は「閉じている」というわけだ。
彼自身は、もう「閉じた芸術作品」には、あまり興味をもたないという。
それは同感。鑑賞者が参加できる芸術のほうがおもしろい。
芸術としてのデザイン